私が日常を過ごす中で、 いろいろな方々と出会います。その時にふと目に入るもの、それが“ 目 ”、“ 瞳 ”の存在です。人が生きる中で、どうしてもお金、地位、名誉、学歴、食すること、等、“欲”に心奪われてしまったり、あるいは、人を憎しんだり、恨んだり、妬んだり、企んだり、嘘をついたり、疑ったり、いわゆる心を閉ざしている状態では、“ 目 ”、“ 瞳 ”が黒くよどんできます。黒くよどんだ“ 目 ”、“ 瞳 ”では、損得や利害関係などに心を奪われた考えに支配され、素直な見方や判断が出来なくなってしまいます。
逆に、素直な心、ピュアな心、無欲、謙虚な気持ち、いわゆる心がキレイな状態では、“ 目 ”、“ 瞳 ”が輝いてきて透明感のあるキレイなものになります。その方が心から信用できる人かどうかは、“ 目 ”、“ 瞳 ”を視れば分かる場合もあるのです。
私は、赤ちゃん整体を行っております。多くの赤ちゃんの“ 目 ”、“ 瞳 ”はキレイで透明なので言葉がしゃべれない状況でもこちらの心が汚れてないならちゃんとコンタクトがとれる気がします。
あるキリスト教会の牧師さんの説教で言われた話ですが、
世の人の罪のために身代わりになって十字架で死なれたイエスキリストが、再びこの地上にキリストを救い主と信じる人の前に現れる、いわゆる“再臨”についての説明のなかで、「“再臨”とはキリストが目の前に現れることである。聖書に“circumstance”と書かれてある。」と説かれました。“circumstance”とは“環境”の意味。私はこの解釈を、学生の時に勉強した美学哲学から、ギリシャ神話 エウリディケの例えにあるように、“ 目 ”、“ 瞳 ”の中にキリストが映し出されるということになるのではないかと思えました。「目は心のまなこ」に例えられるように、“ 目 ”、“ 瞳 ”がキリスト=神を映しだせるのは、本当に心がピュアであるという事にほかならないと思いました。、“ 目 ”、“ 瞳 ”の綺麗の究極が、神の、“ 目 ”、“ 瞳 ”になるという事・・・。
いつまでもキレイな、“ 目 ”、“ 瞳 ”を心がけたいものです。